新潟県阿賀野市分田にまつわる民話都婆の松(とばのまつ)
むかし、鎌倉時代ころ、親鸞聖人というえらい坊さんがおりました。この坊さんが、仏の教えを広めるために、越後国(えちごのくに)に来たときのことです。
ある日、分田(水原町)というところを通りかかったら、お昼になりました。坊さんは道ばたにこしをおろしてごはんを食べようとしましたが、はしがありません。しかたなく、そばにあった松の木の小さなえだを折って、はしのかわりにしました。 坊さんは、食べおわると、はしにしたえだを一本、道ばたの土にさしました。そしてまた旅をつづけました。 ふしぎなこともあるものです。その松のえだは、いつのまにか根がはえ、えだや葉をつけてどんどん大きくなり、見上げるほどの大木になりました。 さて、それから何百年もたったある年のことです。京都の本願寺(親鸞聖人が亡くなったあとに建てられたお寺)を新しくつくりなおすことになりました。なにしろ、とても、とても大きなお寺です。お金も人手もたくさんかかります。日本中のあちらこちらの信者からお金やお米が集まりました。お米やお金のかわりに、京都まで来て、お寺をつくる仕事を手伝う人もおおぜいいました。何百人という人が本願寺に集まったということです。 しかし、大工事なので、できあがるまでには長い月日がかかります。働いている人びとの苦労もたいへんなものでした。 ある日のこと、お寺の工事場に、見たこともない一人のかわいい娘がたずねてきました。 『わたしは、越後の分田というところの松という者です。どうしてもこの仕事をさせていただきたくて、はるばるやってまいりました。どうか、わたしにも手伝わせてください。』と熱心にたのみました。 お寺の人たちは、遠いところからやってきたこの娘にたいそう感激しました。 翌日から、工事場には、いっしょうけんめい働く娘の姿が見られました。そして、たいへんきれいな歌声が流れはじめました。その歌声は、働いている人びとをとても元気づけました。 『あの声は、だれじゃ。よい声じゃのう。あの声を聞くとつかれがとれるわい。』 『あれは、越後の国から来たお松という娘だそうじゃ。』 『ほんに、よい声じゃのう。』 人びとは、口ぐちにそういいあいました。 お松の歌声にのって、工事はどんどん進んでいきました。お松は、毎日、毎日、歌をうたいました。仕事もいっしょうけんめい手伝いました。 こうして、さすがの大工事も、たったの二か月あまりで完成したのでした。工事中、美しい声で歌いつづけたお松はすっかり有名になり、『お松、お松』とかわいがられました。 ところが、どうしたのでしょう。工事が終わると、いつのまにかお松の姿が見えなくなってしまったのです。人びとは、 『あの娘がだまって帰るなんて、へんじゃのう。』 『娘っこのことだ。家がこいしくて早く帰ったんじゃろう。』といいあいました。 さて、お寺では、お松のおかげで工事が早くすんだので、ひとことでもお礼をいいたいと思いました。そこで、一人の坊さんを越後の分田へ使いに出すことにしました。 はるばる分田にやってきた坊さんは、お松をいっしょうけんめいさがしました。あちらこちらとさがしまわりました。 『わたしは本願寺の者だが、この村にお松という娘はいませんか。』 と村の人びとに聞きました。工事場のお松のようすも話して聞かせました。でも、 『お坊様、おらが村には、そんな娘はおりません。』 というばかりでした。坊さんはふしぎなこともあるものだと思いました。 ある日のこと、一人の老人に出会って、つぎのような話を聞きました。 『お坊様。じつは、この土地に親鸞聖人が植えられたという松の木があります。ところが、本願寺の工事が始まってから、その松の木はだんだん元気がなくなって、かれそうになりました。』 老人は、ずっとむかし聖人がこの地に来て植えた松の木について、くわしく話してくれたのです。 『それでは、工事場で歌をうたってくれたお松さんは、その松の木の精だったのか。』 『ふしぎなこともあるものじゃのう。』 坊さんと老人は、顔を見あわせました。 坊さんは、聖人の手植えの松のところへ行きました。そして、松の根もとに『都婆の松』と字をきざんだ石の塔を建て、お経をよんでていねいに供養しました。 ふしぎなことに、松の木はそれから急に色がよくなり、もとの元気な松になったということです。 ※分田の民話『都婆の松』については『市島薫』さんの文を引用させて戴きました。
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